炎症について

 医学部の病理学総論で最初に学ぶ項目が炎症であった。当時はなぜそれを真っ先に講義するかなど考えもしなかった。また教授もなぜそれが重要か話さなかった。いや話したかもしれないが記憶に残っていない。なぜ炎症の概念が重要かということについてあまり考えず、試験に出るから覚えるという程度であった。いま思えば炎症は総論中の総論で飯島宗一学長が厳かに講義された理由を今頃になって気づかされている。
 漢方を勉強し、なぜ人体は風邪を引くと熱を出すのかという基本的なことを考えるとき、人体の炎症反応には必ず発熱を伴うことから、生体反応としての炎症の根本的な意義を考えなければならないと考えた。
 炎症反応は生体組織に対する何らかの障害に対して障害局所に出血、浮腫が起こり、血管が拡張して充血し、白血球が血管外に遊走し、細菌や異物を攻撃貪食、分解し、さらにリンパ球が現れ組織を修復していく治癒過程である。それが肉眼的には発赤、腫脹、熱感、疼痛という症状として観察されるのである。そして炎症はあらゆる部位の組織の障害について同様の過程をとるので病理学の総論中の総論として語られたのであったと改めて気づかされる。炎症論は科学技術の発達に伴って、その物質的メカニズムがより細かく論じられるようになってきた。最近の治験については学ぶ機会がないので調べなければと思うのであるが果たしていない。ただ問題は生体の障害、修復過程でなぜあのような反応を取るかということではないかと思う。
 哺乳類が生きているということは代謝を行い、体温を維持していくことである。これには例外があって、寒い冬食料の確保が困難な場合にはできるだけ無駄なエネルギーの消費を避けるため冬眠を行う動物がいる。低体温に維持し代謝を抑え、心拍数も極端に低下することがわかっている。また夏眠という現象もある。夏の暑い時期や乾季など体温が上がりすぎるので活動を控え、体温の上昇を抑えるための対応と考えられる。冬眠や夏眠は哺乳類が進化の過程で、両生類や爬虫類の時期を経てきた変温動物の名残をとどめるものらしいことを解剖学者の三木成夫の著書で最近教えられた。このような場合の炎症反応はまた少し違ってくるのではないかと考えらえるが、確認していない。ただ環境の温度変化によって体温が左右される両生類や爬虫類の炎症反応は哺乳類とは違うだろうと考える。
 炎症を起こして体温を上げることは風邪の生体反応を見ても、生体が生き延びるための基本的な戦略であるようだ。その炎症の病的過程をできるだけ軽く済ませるように、生体反応を調整することが漢方薬の抗炎症作用であると考えてみることもできる。
 たとえば帯状疱疹では水泡ができて痛みが激しい状態でも、竜胆瀉肝湯(りゅうたんしゃかんとう)、桃核承気湯(とうかくじょうきとう)、越婢加朮湯(えっぴかじゅつとう)などを組み合わせて内服させると血の巡りを良くして充血を改善し、炎症による浮腫を軽減すると急速に痛みが取れることからもそのことが理解できる。
 風邪は全身で反応を起こす過程であり、局所の傷は局所の炎症反応で治まると考えればわかりやすい。

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高齢者の死に対する不安

 最近高齢者で悪性腫瘍に対する漢方治療を求められることがあった。漢方薬で何とか治してほしいという。その人に合いそうな漢方薬を処方するのであるが、当然のことながら背景には死に対する不安が見える。その人の本音は完全に癌が治ることで絶対的な安心が欲しいようである。しかしそれは無理なことで、一般的な死に対する心構えが十分でないことに問題があるようで、次のように話している。
 病気を完全に治す事を優先的に考えて、それが理由で心が落ち着かない状態が続いている。病気が治るように治療することは当然のことであるから、治療をつづけることは大事である。しかし病気の事ばかりを考えて毎日を過ごすのもまた問題である。高齢に成るほど残された人生は少ないのであるから、体が動く元気な間を有意義に過ごすこと考えることが大事である。癌で死ぬかもしれないが、それは少し先の事で、今何をしておけば人生の終わりに自分が納得できるかよく考えて、いまやるべきこと明らかにしてそれを実行するべきであると。
 病気の事ばかり考えて、今何をすべきかを考えないのは、ある意味現実からの逃げの部分がある。年をとることで一日一日人生は短くなっていることを認めるなら、もっと一日一日、一瞬一瞬を大事に生きるべきであることは、ガンにかかっていてもそうでなくても同様に明らかなことで異論はないと思われる。
 年をとって余命短くなると、癌で死のうが、其の他の病気で死のうが、老衰で死のうがあまり差がなくなってくる。
 若し九十歳の人が死にたくないと訴えたらどうだろか? 平均余命が男80歳、女87歳くらいであるから、その人はとうに平均余命をこしているから、いつお迎えが来てもおかしくない年であることは明らかである。すると死の恐怖を訴えることに少しは遠慮も出てくるのではないかとも思われる。寿命があるという否定できない現実がその人に無言の説得力を持ってくるのではないだろうか。
 瀬戸内寂聴さんが九十歳を過ぎて腰を痛め、入院加療を余儀なくされ、さらに癌が見つかり、手術を受け、リハビリを行い、ADLを取り戻していく過程をNHKが紹介していた。彼女にとって一番つらかったのは腰痛で座ることができないことであったといわれた。また癌の手術でうけた全身麻酔の経験から、具体的な死は麻酔のように気持ちよく眠るような感じであることを実感できたため、死に対する恐怖はほとんど感じられないともいわれた。そして生きようとするエネルギーの源はなんであったかと言うと、食事ではタンパク質、脂肪をよく摂る事、日々の生き方においては小説を書く事であった。人々に自分の体験を読んでもらい、喜んでもらう事が心を高揚させ、連続4~5時間の執筆でも疲労感を感じないまでに集中力の源になっていたことが見て取れた。
 このようにみると毎日何をすべきであるかはっきりしていないところに漠然とした不安が迫ってくるのではないかと思われる。すると今日自分は何をすべきかを具体的に考え実行することが不安の特効薬であることが見えてくる。それは一人一人、自分で考えるしかないことである。

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砂糖中毒

 最近WHOで一日の砂糖の摂取量の基準値を15グラムにすることが報道された。15グラムというとお菓子一個食べるとおしまいの量であるとも云われている。砂糖の摂りすぎが、肥満や糖尿病につながる事が明らかになり、それらの疾患が急速に増えていることに危機感を感じているためと思われる。果たしてどれだけの医療関係者、さらには一般の人たちがその重要性に気を止めているだろうか。恐らくは少し砂糖を取り過ぎているから減らそうとは考えるものの、目の前にあるお菓子はさしあたり食べようと云うぐらいの受け止めかたで、そのうち忘れてしまって過剰な砂糖摂取を続けているのではないだろうか。
 以前、当院に勤務しておられた謝花先生が診察室に、砂糖のこわさというタイトルの二つのグラフを掲示してくれた。それによると一つのグラフは明治時代後期から戦後の復興にいたるまで期間の、砂糖の消費量が折れ線グラフで示されている。経済的に景気が良い戦前のある時は砂糖の消費量が増え日中戦争が始まり物資が不足する戦争中から戦争直後に砂糖の消費量は急激に落ち込み、更に戦後の復興に伴う経済の発展と共に消費量が急激に立ちあがっていく変化を示している。そしてもう一つのグラフが、砂糖の消費量の変化とまったく同じ変化を、三大成人病の死亡者率が後追いしていることを示すグラフで、砂糖消費量が成人病の死亡率と相関していることが一目でわかるようになっている。本当に恐ろしい話であること示す資料である。しかし頭で分っても、大人でも甘い砂糖の魅力の方が日常生活では勝ってしまっていることは、いつも実感する所である。ましてや将来を担う子供たちにはこのことが全く届いていないのではないかと思われる。
 本当の怖さはチョコレートの甘い粒を食べると、何時の間にかやめられない、止まらないという中毒に陥っていることにあると私は考える。おいしいのでお菓子を食べ続けているが、其の事を、社会通念として砂糖中毒という言葉で指摘する事はあまり聞かれない。砂糖を食べて社会生活がすぐ破壊されることもないからか、またはそれが重要な産業として経済を支える観点からも、それを大袈裟に取り挙げにくいのではないかと思われる。しかし、世界的には肥満の予防の為にその摂取量を明示し、米国では学校の自動販売機を撤去する事を義務付けるほどまでに事は深刻であることを示している。
 当院では最近、肥満の人のダイエット目的の来院が目立つようになった。当院の炭水化物制限によるダイエットで見違えるような効果をあげている人の話を聞いてみえるようである。
 その人たちの共通の症状は体がだるい、休んでも疲れがとれず、気分が落ち込むなどで、何となく浮腫んでいるような傾向がみられることである。それは砂糖の摂取が浮腫みにつながり、そのため体が余計に重く感じる事に因るらしいことを勉強会で北九州の先生が話しておられた。それによると砂糖1グラムにつき3グラムの水が余計に体にたまるという。まだ糖尿病になっていない人では、砂糖摂取による高血糖に対してインシュリンの血糖降下作用で結果的には低血糖の時間が長くなり、イライラや、体のだるさ、やる気のなさなど、鬱っぽい症状が引き起こされるのではないかと私は考えている。甘いものは口直しの水分摂取を伴い、それに塩分などミネラルが不足すると水の排泄が悪くなり、水毒で浮腫むと漢方では考えており、それを五行説では「脾・土が腎・水を剋す」、すなわち胃腸が腎の働きを抑制すると表現している。水を排泄し、身体を温め、活動のエネルギーを生むのが腎の働きであるから、脾の働きを支持する砂糖の取り過ぎは腎の働きを抑えるため、体が浮腫んで冷えて元気がでないという砂糖中毒の症状が起こってくると考えるのである。そしてそれが長期間続くと生活習慣病で糖尿病となり、合併症で腎臓や心蔵をやられて重症化し、医療費を押し上げるのである。
 又最近砂糖の取り過ぎで皮膚の痒い発疹を発生生じ、掻きむしって飛び火に成り、なかなか治らない人が外来に見える。皮膚科を転々としても砂糖が原因であると指摘されないので何年も治らずに苦しんでいる。砂糖の摂取を控えるように注意したら恨めしそうな顔をして睨んでいたが、次来た時には症状がかなり良くなったので納得してくれたのではないかと思う。皮膚のかゆみにも砂糖は悪い。
 同じようなことは炭水化物の過剰摂取でも起こるようで、そろそろ砂糖中毒、炭水化物中毒という言葉に市民権を与え、健康や生活習慣棒の予防に正面から取り組むべきではないかと考える。

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ロコモ(Locomotive syndrome)

 ロコモとは「locomotive syndrome」のことで、「運動器の衰え、障害(加齢、生活習慣)によって要介護となるリスクが高まる状態」とある。年をとって足腰が衰え、次第に日常生活が制限されついには介助が必要となる前の状態である。それはまだ他人事であると思っていたら、その兆候が我が身にも起こっていることを知り愕然とした。
 それは昨年の連休に本土の観光ツアーに出かけた時の事であった。バスツアーは長時間バスに乗り、ときどき休憩所で小用を足すためパーキングで少し歩く程度でほとんど動かないのが通例である。長時間足を使わないのでバスを降りるとき足元が心もとなく感じていたら、地面に足をついたとき突然よろけることがあった。それから手すりを掴まえ腕で体重をしっかり支えて降りないと転びそうになった。観光地に着いて観光のため長い下りの階段を降りるとき脚力の衰えを感じ、いよいよ自分にも来るべきものが来たと感じ、周囲の景色のうつくしさも半減したのであった。年をとれば足腰が衰えるのは当然の自然の流れと患者さんたちにも説明していたのだが、64歳の自分にその兆候が具体的に表れてきたのは大きなショックであった。
 考えてみればマンションで生活し、通勤は自家用車、仕事はデスクワークでほとんど歩かない。万歩計をつけてみたら何と一日2千歩であった。半ドンや休みの日はできるだけ歩くようにしているのだが、それもだんだん億劫になってきていた。そしてウォーキングにも出ないことが目立ってきていた。その結果が観光ツアーで下りの階段で往生する結果になったのであった。
 その後脚力の強化を図るため三浦雄一郎氏のまねをして脚に1.5キロの重りをつけて歩いたら、左膝が痛くなり、逆効果であった。ウォーキングの回数を増やし、歩行距離をのばすと関節痛がひどくなり、無理はできないと悟る。脚力の衰えをテストする片足立ちをしたら普通の高さの椅子ならなんとか立てたが、少し低くなると立てない。そこで片足立ちを練習し続けたら少し低くても立てるようになった、次にやったのは片足横とびである。距離を少し広げて仕事の合間にその場で続けているが少し脚力の強化に役立っているようではある。しかしこれもやりすぎは禁物である。運動しないと脚力が衰え、やりすぎると痛めてこれも逆効果。微妙な適正負荷を求めて脚力を鍛える毎日である。
 脚力の低下はいつから起こってきたか、振り返ってみると発端は仕事の最も忙しかった40代であった。長いことランニングをしない期間があって久しぶりに走ったら、百メートルの全力疾走ができなくなっていた。そのうち鍛えればまた走れるようになると高をくくっていたら、年と共にどんどん速く走れなくなってきた。それでも時々ランニングをすれば年をとっても脚力は維持できると思っていたらそうではなかった。これからは日々脚力の衰えとの戦いであると覚悟しなくてはならないことが明らかになった。
 東日本大震災の時避難された方たちは、被災直後しばらくはすることもないので、横になって過ごしているうちに気が付いたら歩行が困難になっていたということがあっちこっちで起こったに違いない。そしてそれは高齢になるほどその影響は強くなるのは当然である。他人事ではなかった。
 脚力の衰えを漢方では腎虚とみるが、漢方薬の牛車腎気丸(ごしゃじんきがん)は普段から飲んでいたがあまり目立った効果を上げていなかったように思う。やはり筋力の維持には適切な運動負荷をかけることが不可欠であると改めて身を以て確認している。
 また以前は年をとるとあまり動かないから必要なカロリーが少なくてもよいと漠然と考えられてきたが、筋力を維持するという面から考えると蛋白質はしっかり摂る必要がある事が最近は強調されるようになった。特に独り暮らしになると面倒だからと食事を抜いたり、炭水化物中心で蛋白質が少なかったりすることが想像される。栄養は特に注意する必要があると改めて強調したい。

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限られた命、寿命

 ハートライフ病院で勤務していたころは漢方の新たな可能性を模索していて、あるいは癌も治らないかと積極的な治療を展開をし、多くの末期がんの患者さんを見送った。また免疫力強化によるがん治療の可能性を模索して横浜サトウクリニックのBRP療法、免疫監視療法を取り入れたのもあの頃であった。
 クリニックを開業し、外来診療のみで 入院施設を持たない診療では癌の患者さんを診る機会はほとんどなくなった。入院による治療ができないのでお互いに診療を避ける無意識の作用が働いているのではないかと思う。それでも漢方薬による全身状態の改善を希望して来られる患者さんも時にはおられる。しかしクリニックでできることは限られており、少しでも楽になればいいという気軽な気持ちで対応するようにしている。
 以前ハートライフ病院で診療していたころの癌の患者さんと最近の患者さんの大きな違いは、最近ではほとんどの方がガンの告知を受けていることである。告知を受けていると自分の今の状態あるいは治療の見通しについて一定の了解を持っているため、厳しい現実を受け入れており、或る種の覚悟ができている点にあるのではないかと思う。その点まず病気の現実に向き合うという厳しいハードルを超えており、最初から治療の効果に限りがある事を前提に話ができるので、治療する側としては以前よりは説明がしやすくなる。ところが今でも告知をされていない場合もあり、そのような場合は何となく腫れ物に触るような核心に触れることをさけるような隔靴掻痒の対応になりがちである。
 私がこのクリニックを始めるにあたって掲げた理念の第一を「寿命に限りがある事を理解する」としたのは、現実をみつめ、無限の命ではない事を了解して治療しないと、お互いに無理をしてしまう事を避けるためであった。その現実を受け入れると気持ちが楽になり、それが精神の安定につながり、その分免疫力も上昇するのではないかと考えている。
 思えば人の一生の長さは限られている。病気の人は病気でない人よりは少し早めに、寿命が尽きる可能性が高いだけある。病気でない人はあまり寿命について考える必要に迫られないので何となくいつまでも元気で生きられるという漠然とした安心感をもって日々過ごしてように見える。しかし年を重ね体の機能の衰えを少しずつかんじると、やはり限られた寿命を見つめざるを得なくなる。そのようなことを病気になった方々にお話しするとあまり抵抗なく納得してもらえることを経験している。
 限られた命の話をすると、普段は何となく避けてきた課題に正面から向き合うというささやかな体験を共有する分、お互いに気持ちも少しは和らいで何となくほっとする雰囲気に変わることを実感する。

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プロフィール

仲原靖夫

Author:仲原靖夫
昭和51年広島大学卒業、中部病院で外科の研修を終え、八重山病院、アドベンチスト・メディカルセンター、ハートライフ病院、屋比久産婦人科小児科東洋医学センターで西洋医学と東洋医学を併用した診療を続けてきた。現在、『仲原漢方クリニック』(沖縄県那覇市牧志)院長。

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書籍の紹介

東洋医学の雑記帳

仲原漢方クリニック院長のドクター仲原が、1992年から2001年まで、週刊レキオに東洋医学、漢方関連の記事を掲載していたものをまとめた本です。現代西洋医学と東洋医学の病気の考え方の違いや漢方についてわかりやすく解説されています。 冷えの害、不定愁訴について、漢方で癌は治せるか、リウマチと漢方、肩こりについて、風邪について、偏頭痛、不眠、関節痛、自律神経失調症など。

定価:1,000円(税込価格)

発行:(株)週刊レキオ社
(株)週間レキオ社又は全国の書店および「当クリニック」にて販売中

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